クリーク奮闘記 終わりに

終わりに

最終年である1822年まで生き残ることができました。

正直、生き残れるとは思ってませんでした。

だいたい、このプレイ自体3回目でありまだ手探りな訳でしたし。

始める前に思っていたのは「アメリカ原住民が生き残る=途中でアメリカに変体する」と思ってましたが起こりませんでしたOTL

また統治体制が部族制は部族制しかなれないとか死にそうな気分で何度もやめようかと思ったことか・・・。

しかし、無事、最後までいけた。

書くことが面倒になりつつあったりしてほんとにだめだめでした。

初めの方と終わりの方では全然力の入り方が違ってるし。

AARを書いている方々の偉大さを身にしみて感じましたよ・・・。

最後までみてくださった方々、ありがとうございました。

 

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クリーク奮闘記 終結

中央アメリカ征服後

中央アメリカ征服後、クリークは親仏派が相も変わらず実権を握っていた。そして気づいてみれば後のカナダ領や南米のほとんどがフランス領になっていて、大フランス帝国が完成していた。その領土は非常に広く、インドは勿論、東南アジアまで勢力を誇っていた。

この頃になると反仏派は完全に少数派になっていた。反仏的行動を起こせば絶対的軍事力を持つフランスから攻められるのが目に見えている。なので実力行動はほとんど行われず、衰退したのだった。

また、フランスの影響か国民の中には少しずつキリスト教への改宗が行われるようになっていった。(ただし、国教はあくまでもアニミズム)

アフリカへの遠征

上も下もフランスに囲まれたクリークは新たな領土を欲し、アフリカへ渡ることを決意した。しかし、すでにアフリカは西洋の国々と現住民族の国とが所狭しとあり、つけいる隙はなかった。

クリークはあきらめきれず、現住民族の一つナタールへと宣戦布告することになる(アフリカ出兵)。

この戦争は8年続き、従事した兵士は5万人に上る。

そのうち戦死者数は1万人という損耗率20%という多大な被害を生んだ。

この戦死者の多く(9000人近く)はクリークからナタールへと征くと中の船の難破によって無くなっている。途中に寄航する場所が無く、行き当たりばったりの戦略だったためだ。(後期には航海術の完成度も高まり、難破してしまうこともなくなった)

この戦争によって喜望峰に近いナタール領を割譲させ、さらにアダルを属国にすることに成功した。

独立運動の機運

南アフリカに領土を手に入れた後、新大陸では新たなる風雲を告げていた。

それはアメリカ独立未遂戦争が勃発したのだ。東海岸の州(旧フランス植民地領)が一斉に蜂起した事件である。このとき、クリーク軍は敗退を重ね、独立がなるかというところまで行ったが、フランス軍の協力により反乱軍は次々に撃砕されて独立はなされることはなかった。

また、中央アメリカでも独立運動(中央アメリカとメキシコ)が起こったが、こちらは元々の原住民達の反乱であり、そんなに強力でもなく即座に鎮圧され、やはり独立することはなかった。

終わりに(感想なので読まなくてもいいです)

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クリーク奮闘記 中央アメリカ征服

中央アメリカ征服

ポルトガルへの戦いが終わった後、未だポルトガル領に駐留していた部隊は次なる目標にたいしての行動を開始した。次の目標はアステカである。

ポルトガルによってもはや虫の息になっていたアステカであるが、それでも強気の外交を繰り返していた。

クリークは隣接していたという関係もあり、非常に邪魔な存在になっていた。

傭兵部隊がまだポルトガル領内から撤退していない今こそ好機と宣戦布告を行った。これによりアステカ、サポテカ、マヤの中央アメリカ各国との戦争となった。

ともに現住民族の戦いとはいえ欧州化されたクリークにとってアステカやマヤ、サポテカは敵ではなかった。

まず始めに領土を二州しか持たないサポテカは早々に制圧された。

次にアステカも併合された。

最後に残されたマヤはパナマを保持することによってなんとか併合を回避しようとしていたが結局制圧され併合された。

虐殺と見なされる戦闘であった。

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クリーク奮闘記 第二次クリーク・ポルトガル戦争

第二次クリークポルトガル戦争

技術的にはかなわないが総兵力で勝るポルトガル同盟(ポルトガル、コノート、レンスター、アラゴン、ウェールズ)はついに宣戦布告をしてきた。

これに対してクリークは迅速に対応し、海岸沿いに大型船3からなる防衛艦隊を七個艦隊配備し、かつポルトガル連合の植民地と接する州には傭兵部隊を配置した。

コノート軍部隊(1000人)が先制攻撃をかけたがこれを撃退し、逆に制圧した。また、ポルトガル植民地領に素早く進撃し、順次制圧しポルトガルを早々に追い詰めていった。

その一方でアラゴンによってカリブ海に浮かぶ島々の植民地は制圧、奪取されてしまった。

クリークはアラゴンに二カ所の植民地をとられたがそれについては水に流して痛み分けで単独和平を行った。

またポルトガル植民地の多くの領土を占領した結果、コノートはポルトガルによる支援は不可能であろうと判断し、早期に独自に500ダカットを支払うことによって和平を締結した。

ポルトガルはそうしている間にも何とか挽回しようといろいろ策を練っていた。

クリーク東海岸を強襲し、一気に上陸作戦を試みようとしたりし、事実、防衛艦隊が敗退するといった自体もあったが上陸するには至らなかった。

そしてアメリカ大陸すべての植民地領を制圧されたポルトガルは和平交渉にテーブルに着かざるを得なくなった。

クリークが突きつけたのは以下のようなものであった。

ポルトガルにとって多くの人的資源を費やして得てきた植民地を失うことは避けたかったが、それを拒否できるだけの力は残っていなかった。

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クリーク奮闘記 安寧の50年

安寧の50年

第一次クリーク・ポルトガル戦争後、クリークにとって敵となりうる存在はフランスだけとなっていた。

「ポルトガルには勝てた。ならば次はフランスとの戦いか」 という考えが浸透しつつあった。

しかしそんな時期に大長老オポツレヤホロ一世が死去してしまった。彼の後を継いだのは軍事に優れたウィリアム四世マッキントッシュであった。

彼は強大な陸軍国家であるフランスと戦って勝てるとは思っていなかった。むしろ負けてしまうだろうと予測していた。

そのため、クリークは親仏政策を展開して戦争を回避しようとした。この政策は功を奏しフランスと事を構えることを回避することができた。

だがいつ戦争が起こるとも限らないために富国強兵を志した。

その方針の一つとして海軍の増強があった。

今までアメリカ大陸内だけで戦っていたわけだが、西洋諸国と戦うようになってきて沿岸の警備が必要となってきた。

海岸線に兵士を貼り付けたのでは効率が悪く、尚かつ財政的にも維持し得ない。

そのため、海に船を浮かべて守るという考えが生まれたのだ。 それまでにも海軍は存在したがついに本腰を入れて増強されたのである。

それにより大型船十二隻小型船二隻が完成したのであった。

一方で勢力を拡大しようと積極的に動いていた。

その一つがイロコイの併合である。

元々属国であったイロコイだがこのまま行けばフランスに飲み込まれる可能性があった。

かの国の中では「西洋に飲み込まれるくらいなら」という気持ちもあったのであろう、アメリカの国であり宗主国でもあるクリークの併合条約に調印したのだった。
(ただし一部の反対者も存在していた。彼らは併合後、たびたび反乱軍を形成して再独立を試みようとしていた)

これにより平和を維持しながら拡大に成功した。

このほかにも防衛力の強化や農業改革による収入の増加、道路建設による交易の活発化などを行っていった。ポルトガル文化もクリークに含まれた。

その結果として確実に経済力をつけていった。

この50年で防衛力は増強されたが正規部隊数は減っており、総合的な攻撃力は落ちていた。

平時には経済問題から多くの兵力を持とうとしなかったのだ。

元々クリークは戦争が起こると傭兵部隊を雇い、多いときには全部隊の六割以上を占めていることもざらにあった。

そんな国家が長期の平和を過ごしたらどうなるか。答えは簡単だった。確実に兵力は減ってしまったのだ。 そしてその時を虎視眈々と狙っていた国があった。

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クリーク奮闘記 第一次クリーク・ポルトガル戦争

第一次クリーク・ポルトガル戦争

長い間、ポルトガルの脅威にさらされ、懐柔政策によって戦争にならずにすんでいたクリークであったが、1570年代からポルトガルが衰退を始めていた。

それに対してクリークは植民地領奪取の計画を練り始めた。

そして1584年、ついに宣戦布告がなされた。

NARRAGANSET侵攻作戦、フロリダ半島制圧作戦が同時に開始。兵力が配備されていなかった両地域は1月の間に制圧はされた。

これにより背後を突かれる恐れが無くなったクリークは一気に西部へ侵攻を開始した。

アステカ軍の攻撃によってすでに弱っていたポルトガル植民地軍は敗退を重ね、どんどん押されていった。

しかしながらある程度の進撃してしまうと戦況は膠着状態になってしまった。

6年もの間、戦い続けたがついに制圧しきることができず、和平を行うこととなる。

その結果、ポルトガルはクリークに対してNARRAGANSETとフロリダ半島、そしてBAYOUGULAの割譲することなった。

この戦いによってクリークは414ダカットの借金を負うことになったがそれ以上に得るものもあった。それは時が過ぎれば手に入るポルトガルの文化であった・・・。

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クリーク奮闘記 文明開化

文明開化

植民地政策により旧フランス植民地領を本格的に我が領内に編入することに成功をしたクリークは文化の西洋化が行われることとなった。

1559年のことである。

これにより飛躍的な技術発達が起こったクリークは海軍技術では西洋に劣るものの陸軍技術では十分に互することのできる力を手に入れたのだった。

そのまま時は過ぎ去り、13年の月日を経た。 ラモチャッティ三世が亡くなり、オポツレヤホロ一世が即位した。

そして新たなる戦いの足音が響き始めた。

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クリーク奮闘記 ポルトガルの登場

ポルトガルの登場

第一次クリーク・フランス戦争で勝利を果たしたクリークであったが、次の戦いに備えて準備をしなければならなかった。

これから先、次々に西洋諸国が現れることは目に見えている。それに対抗するためにはなんとかして兵力を整える必要があった。

1513年、ウィリアム二世マッキントッシュは死去した。彼の跡を継いだのは彼の息子であるウィリアム三世マッキントッシュであった。

しかし彼は短命であった。この六年後には彼もまたこの世から去ることになる。

ウィリアム三世マッキントッシュの跡を継いだのはミコ・マラッチ二世だった。 ミコ・マラッチ一世の直系の家系であり平和主義者でもある。外向的な手段による解決を模索するミコ・マラッチ二世はTIMUCUAを植民地にしたポルトガルに対して柔和政策を行うとした。

彼が亡くなる1542年にはポルトガルとの関係は非常に良好なものとなった。

また、第一次クリーク・フランス戦争時代の負債もこの大長老時代に完済された。

彼の死後、後継者となるべき人物はまだ幼かったため、摂政評議会によって国の方針が決定されることとなる。

摂政評議会はおよそ6年にわたって続いたが、1549年にラモチャッティ3世が大長老となることになった。

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クリーク奮闘記 第一次クリーク・フランス戦争

第一次クリーク・フランス戦争

ついにフランスが隣接州に植民地を作り出した。

このまま放置していては追い出すことはかなわなくなるだろう。

そう感じた時の大長老ウィリアム一世マッキントッシュはフランスとの戦争を決意した。

1500年8月21日、フランスに宣戦布告をした。

強襲されたフランス軍はなすすべもなく撤退に撤退を重ね、隣接していた植民地をすべて制圧された。

そしてフランス同盟国に対しては痛み分けで和平を行った。

そのままフランスとは膠着状態になってしまった。 しかし、ここで明るい知らせが入ってきた。

我が版図に入ってから50年が経ち、チェロキー部族が恭順してきたのだ。

さて、対フランス戦線に戻る。

対フランス戦線では偽造工作が行われていた。

1508年にウィリアム一世マッキントッシュが死去し、ウィリアム二世マッキントッシュが即位した。

彼は一世のやらなかったこと、つまり植民地を制圧し、すべてクリーク領へと編入させることを実行した。

こうして制圧したフランス植民地領はすべて制圧し、痛み分けという表面上は何もなかったかのような実を伴った和平が行われた。

そしてこれにより新たにフランス中央部系民衆がクリークの文化へと加わった。

こうして第一次クリーク・フランス戦争は終結した。

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クリーク奮闘記 長き平穏

長き平穏

ショーリーを併合してもはや敵はいなくなったため、内政へと目を向けることとなった。

だが旧ショーリー領と旧チェロキー領内では反乱が連続で起こっていた。

鎮圧しては再度起こる。

時間が解決するであろう事ではあるがそのために軍隊を解体することは不可能であった。

しかし、1472年を境に反乱の数が激減する事となる。

それはラモチャッティ一世が死去し、ラモチャッティ二世が即位したからだ。

彼は行政能力の優れた人間であり、懐柔政策を行ったのだ。

そのためそれまでの組織だっての反乱が不可能となり個々で独立した形でしか行えなくなってしまったのだ。 そして反乱はなくなっていった。

1471年6月1日、CUZCO(南米)を発見する。

1480年、統治形態が部族独裁制へと移行する。

1488年、ALABAMAに貿易センターを開設。

同年、教皇領に市場を開放する。

1491年、TIAHAで減税を求め農民と一触即発状態になる。減税をすることで暴発を阻止することに成功した。

1496年、インカの貿易の地COZCOの市場が開放される。

1498年、ついに西洋の国フランスがクリークと隣接する州に植民地を作り始めた。

そろそろ平穏が崩れ去るときが近づいているようである。

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クリーク奮闘記 1459~1460 ショーリー侵略戦争

1459~1460 ショーリー侵略戦争

1459年10月2日、クリークは宣戦布告へと踏み切った。

クリーク軍はTENNESSEEに第二臨時部隊3000(傭兵)、TUSKEGEEに第一部隊(正規部隊2000+傭兵部隊1000)、CHEROKEEに第三臨時部隊3000(傭兵)の計9000人に対してショーリー軍はPENNYRALEに6000という配置であった。

クリーク軍はTUSKEGEEにいる第一部隊がSHAWNEEへ侵攻し、無血制圧した。また、臨時第三部隊もCUMBERLANDへ侵攻した。

その後、第一部隊はTENNESSEEにいた第二臨時部隊とあわせて敵部隊6000人が守備をしているPENNYRALEへと侵攻開始し、制圧に成功した。

第一、第二共同部隊は勢いに乗じてKENTUCKYも奪取した。

第一・第二共同部隊がWLAへ第三部隊はCUMBERLANDからOHIOへと侵攻を開始した直後、旧チェロキー領CHIAHAで反乱が起こった。

ショーリーによる攪乱作戦であると見抜いたクリーク軍は臨時に傭兵部隊をMUSKOGEEで結成し、鎮圧に当たらせた。

そして本部隊たちはそのまま制圧を敢行し、チェロキーに引き続いて完全併合を行った。

これによってショーリー侵略戦争はショーリー消滅によって幕を閉じた。

余談ではあるがショーニーはクリークの主要な文化の一つして迎え入れられることとなった。

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クリーク奮闘記 不穏な動き

不穏な動き

大長老ミコ・マラッチ一世によるショーリーとの婚戚関係は国内に不穏な風を巻き起こした。

そんな中、ミコ・マラッチ一世が突然この世を去ることとなった。1458年3月1日のことである。

そして新たに就任したのは第一部隊司令官であったラモチャッティ・チェポナ(ラモチャッティ1世と名を改める。

能力は行政5軍事4外交7)である。

彼は反ショーリー派の筆頭であり軍事的も経験を積んでいた唯一の将軍であった。

また、ミコ・マラッチ一世の死には不自然なものがあったが暗殺をしたという確固たる証拠はなかった。

ラモチャッティ一世の世になってもショーリーとの婚戚関係は続けられることとなった。

欺瞞のためである。

反ショーリー派はショーリーの併合をもくろんでいた。

そのため、大長老が死去したからといって方針を変えれば防備を固められてしまう恐れがあり不利となると考えたのだ。

また密偵による外交工作でPENNYRILEの領土領有権を手に入れることに成功した。

ついに戦争に踏み切ろうとしたとき、一つの悲劇が襲った。

ラモチャッティ・タロフ・ハルジョの死である。ラモチャッティ・タロフ・ハルジョは大長老で弟に当たり、軍事顧問でもあった。

彼の死により計画は3ヶ月延期されることとなった。

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クリーク奮闘記 一時の平和

一時の平和

チェロキーが併合された後、我が国に一時の平和が訪れた。

近くにある国はショーニー一国という状況であり、我が国の方が大きくもあったために攻められる恐れもなくなったのだ。

だが、旧チェロキー領で反乱が起こった。

それに対して速やかに鎮圧を行い事態が発展することはなかったが、一部の部族の間では「今回の反乱はシェーニーが裏で手引きをしているのではないか」という不穏当な噂がささやかれた。

絶対的な力を持っているわけではない大長老は一部の長老からの要請によりショーニーにばれないことを前提にした外交工作を認めた。

そしてその工作が成功したのが1956年8月6日にPENNYRILEで暴動未遂事件である。

この事件はショーニーに反発を持つものの仕業としてショーニーでは片付けられた。

一方で、大長老ミコ・マラッチ一世はショーニーとの婚戚関係を結び、緩やかな同盟関係を成り立たせた。

ショーニーとしてはちゃんとした同盟関係を結びたかったがクリーク国内ではそれをよしとしなかったためのであり、この政策自体は反ショーニー派と親ショーニー派の意見の間をとった苦肉の策であった。

しかしこれが原因でミコ・マラッチ一世はクリーク国内での反感を買う事となってしまった。

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クリーク奮闘記 1454~1455 クリーク侵略戦争

1454~1455 クリーク侵略戦争

3月29日、大長老ブリムが死去した。新大長老にはミコ・マラッチ一世(能力は行政8軍事4外交8)が就任した。

ミコ・マラッチ一世は新たなる製作により国力増強を行おうとしていた。それをおそれた チェロキーはクリークに対して宣戦布告を行った。

正規兵2000しかいないクリーク側は傭兵を雇って以下の様に部隊を配置して対抗した。

ラモチャッティ・チェポナ率いる第一部隊は首都防衛、ラモチャッティ・タロフ・ハルジョ率いる臨時第三部隊はMUSKGGEE防衛、臨時第二部隊はCHIAHAへ進撃し、敵軍の分断を試みた。

戦闘開始直後にCHIAHA制圧するも即座に奪還され、首都ALABAMAも陥落された。

しかし、臨時第三部隊によるチェロキー東部制圧作戦成功は成功していた。

これよりチェロキー側は東部奪還のために兵力を割かなければならなくなった。そのためALABAMAの守りは薄くなった。

クリーク側はその好機を見逃さなかった。臨時第二部隊に新たに2000の傭兵を増強し、ALABAMA奪還作戦を第一部隊と臨時第二部隊によって実施した。

この作戦は成功した。

勢いに乗ったクリーク群はALABAMA奪還部隊と臨時第三部隊によるTUSEGEE侵攻作戦が実施した。

チェロキー軍7000(ALABAMAにから敗退してきた兵力5000とCHIAHA奪還作戦に失敗して撤退してきた兵力2000)に対してクリーク軍8000という戦いが行われた。

この戦いは士気の低下の著しいチェロキー軍には不利であった。

防御しきれないと判断したチェロキー軍はTUSEGEEを放棄し、体勢を立て直そうと撤退したがクリーク軍の勢いになすすべもなく最後の領土であるTENNESSEEまでも陥落した。

この場にいたってチェロキーは交易中止を言い渡してきたが交易をしていない(中心地が発見されていない)クリークには関係なく大勢にも影響を与えなかった。

むしろこれをきっかけに「生き残らせても刃向かうと思われる」という考えが広まり、チェロキーに完全併合を言い渡すことにつながった。

すでに交戦能力が無くなっていたチェロキーは1455年5月18日併合要求に屈し、我が軍の一地域となった。

ここにチェロキーによるクリーク侵略戦争はチェロキーの消滅という形で終結したが、クリーク国内に拡大主義という新たなる戦いの胞子をばらまいたのであった。

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クリーク奮闘記 状況確認~開幕

状況確認

当時のクリークという国はアメリカ東南部に位置した。

カリブ海に面した温暖な気候であり、隣接する国はチェロキーのみである。

統治形態は部族民主制をとっていた。

財政も悪くなく外部侵攻などということも行ってなかった。

開幕 1453年

国内に革新主義者が増えつつあった。

しかしながら急激に変貌することもなく穏やかな日々が続いていた。

しかしながらこの平穏は嵐の前の静けさであった。

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